エンコルピオのブログ

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私的3大ギタリスト ALLAN・HOLDSWORTH編 PART4

  JLポンティのバンドからBブルフォードのソロワークに参加後、スーパーグループUKに参加した後、Bブルフォードと同時期にUKを脱退しブルフォードのバンドに参加したことは既に書いた(1/28 B・Bruford編)。


ブルフォード脱退後、ジャズピアニストのゴードン・ベックとコラボアルバムを発表したりする中で若手ドラマーのゲイリー・ハズバンドと知り合い意気投合。


元テンペストのポール・ウィリアムス(Vo)を迎えて、彼が立ち上げた自主レーベルからホールズワースの正式な1stソロアルバム「I.O.U」(1982年)が発表される。


テンペストはホールズワースがメジャーデビューした最初のバンドで1973年「TEMPEST」に参加しているが、バンドがハードロックを志向している中でジャズ的なアプローチをしていて後のサウンドの萌芽を見ることが出来る。
ただ個人的にはボーカルスタイルが好みでないので、CDは所有しているものの愛聴盤とは言えない。


メンバーは彼をバンドに誘ったドラムのジョン・ハイズマン(元コロシアム)、ベースのマイク・クラーク(元コロシアム)、Pウィリアムス(Vo・Key)、ホールズワースの4人。


さて「I.O.U」はボーカルが入っているものの彼のソロキャリアとして正式に発表されたものだ。
この作品を契機としてカリフォルニアに移転して、西海岸をツアーする。
そこでメジャーになるきっかけの出会いがあった。
ホールズワースの大ファンだったヴァン・ヘイレンのエディ・ヴァン・ヘイレンが飛び入りでセッションになり親しくなったのだった。


エディの口利きでワーナーブラザースと2枚のCDを制作する契約する。
自主レーベルからワーナーというメジャーレーベルからの大チャンスだ。
そしてエディ自らがプロデュースを買って出る。
ところがいざエディのハードロック主体な構想からホールズワースが「I.O.U」のような楽曲を用意。
するとエディからヴァン・ヘイレンのプロデュースもしたワーナーのプロデューサー、テッド・テンプルマンに交代となる。
Pウィリアムスのボーカルを採用し、自らのサウンドポリシーを曲げないホールズワースとPウィリアムスのボーカルを嫌い、売れ線のアルバムを主張する制作側とは平行線をたどることになる。
テンプルマンは発売中止を希望するが、結局6曲のミニアルバムという形で1983年「ロードゲームス」が発表される。
しかしレーベルの言うことを聞かないホールズワースは契約を解除される。
まあ彼らしいと言えば彼らしいが。


そして1984年5月初来日公演を行った。
この時のライブの模様は「live in Japan 1984」としてDVDで見ることが出来ます。
ちなみにメンバーは、I.O.UバンドとしてPウィリアムス(Vo・Key)、Cアッカーマン(D)、Jジョンソン(B)。
ここで彼の日本に対する印象を作曲した「TOKYO DREAM」が一曲目として収録されています。


その後彼は自らの世界観、コンセプトを多くのソロアルバムとして発表していきました。


またよく来日して公演をしてくれました。


私も六本木のピットインでの公演を数回体験したものです。
そこではCワッカーマンやGハズバンドの若手ドラマーのエナジーを引き出しつつ神業のようなフレーズを魔法のように紡ぎ出す指先をまじかに見て感涙モノだったことが昨日のことのようです。


残念なのはピットインに向かう途中でホールズワース本人と歩道で折角出会ったのに、呆然としてサインをもらい損ねたことですかね。
日頃CDを通じて聞いていた本人が目の前に現れるとファンとして呆気に取られてしまったのでした。